○あらすじレイ(トム・クルーズ)は妻から離縁されたばかりの、冴えない中年労働者。子供達は自分で預かることになったが、彼らとの関係もぎくしゃくしていた。
ある日、町の中心部の交差点に何度も何度も雷が落ちた。レイはその落雷現場に野次馬の一人として向かうが、突然そこの地面から巨大な歩行兵器が出現した。
トライポッド。唸り声のような奇妙な音を発しながら、恐ろしい破壊光線と鉄壁のシールドをもって虐殺を繰り広げる、宇宙人の騎馬。
子供たちを引っ張り、辛うじて町から逃げることができたレイだが、すでに侵略は世界規模で始まっていた。
(以下、「宇宙戦争」はもちろんのこと「インデペンデンス・デイ」のネタバレも含むので注意)○感想理不尽な暴力。
理不尽。文字どおり、「理に合わない」という意味のことばだ。
ある日突然、わけのわからないものが現われて、わけもわからないままに殺される。
「わけのわからないもの」ってところがポイントだ。この映画の場合は、地球人を襲う宇宙人のこと。
侵略の理由も兵器の性能もわからない。そして何より、どのような思考回路が備わってるのかがわからない。
どのように考えながら成立してきた生物なのか、どのように考えてこのような行動をしているのか、本質的には理解する糸口は無い。
理不尽な存在だ。融和はできない。殺すしかない。「インデペンデンス・デイ」という映画があった。宇宙人の巨大円盤が地球を侵略していく映像が凄い。軍事描写などにテキトーな部分は散見されるが、「細けぇことはいいんだよ!」とばかりに、ついついそんなところは流して視てしまいたくなる。
だがそれでも、やっぱり「あの部分は流しちゃいけないよな」って思うところがある。この「宇宙戦争」を視て、そのことを再確認した。どの部分かと言うと、
・円盤を覆うシールド兵器は、コンピュータウィルスにより無効化できた。という部分だ。
つまり、宇宙人も地球人と同じ(または簡単に解析できる程度に似た)プログラム言語を使っていたというわけだ。
プログラミング言語は、地球人の論理が生み出した賜物だ。それを宇宙人も使っていたということは、宇宙人の論理体系も地球人の論理体系も変わらなかったということだ…と言ってしまっていい。
なんだ、わけのわからない宇宙人かと思ったら、こっちの論理が通じる余地があるのか。十分わけがわかるじゃないか。完全なまでの“理”不尽とは言い難いじゃないか。
「理不尽な存在だ。融和は出来ない。殺すしかない」という方針で話を進めていたはずなのに。
と、そんなわけで、「インデペンデンス・デイ」の、理不尽を描ききれていない点には萎えてしまった。
このような考え方に対して、以下のような反論もあるだろう。
a・「宇宙戦争」だって、「宇宙人も風邪をひく」なんてオチじゃないか。「宇宙人に人間の理が通じている」のではないのか。b・現実の戦争だって、同じ論理体系が備わっている地球人同士が争っているだろう。この二点について、考えていきたい。
a.暴論かもしれないが
制作者(というかスピルバーグ監督)にとってオチはどうでもよかったんじゃないか。
描きたかったものは、どう考えても、人がバンバン死んでいく暴力シーンだ。あのオチと結論を描きたかったわけではないだろう。
理不尽と言うよりは、ほとんど不条理と言った方がいいような暴力。
トライポッドが発する光線は、あらゆるものを一瞬で塵と化す。
ただし、狙いはあくまで人間だ。
街ごと一気に吹き飛ばしたりはしない。一人一人、恐怖に慄く表情を観客に見せながら、殺していく。
「一瞬のことだったので、苦しまずに逝った」などという救いは与えてくれない。
街を壊さず、人を殺す。占領の構図。
そもそも、「奴らは人類が生まれる前からこの侵略を準備していたんだ…勝てるはずがねぇ」というセリフからして、制作者自らあのオチを否定しているように見える。
天災の極みのようなもの(それでいて、天災ではない)に、人類が勝てるはずがない。
もし、最初から最後までひたすら地球人が殺されるだけで、主人公一家も救われないような映画だったら…と、薄暗い(そして爽やかな)妄想が湧きあがる。
b.人間同士の間に働く暴力も、イヤというほど描かれている。
車を手に入れるために殺し合う民衆(地面に落ちた銃を男が見つめる場面がたまらん)、娘のために人を殺す父親(敢えて殺害の様子を直接見せず、カメラは娘の居る側に固定してるのは流石)。
独立の名のもとに人類が力を合わせる「インディペンデンス・デイ」のような映画ならば、「地球人vs宇宙人」という単純な二者対立の構図が成立していた。
「宇宙戦争」はそうではない。極限状態に陥った人間同士が、エゴむき出しで争う部分にも焦点をあてている。
一応、軍隊も出てきてトライポッドと戦う。だが、どこか統制のとれていない兵士とジープの動きからは、無謀っぷりが滲み出ている。勇敢に立ち向かっている、とは言い難い。
あくまで、「宇宙戦争」で描かれている人間同士の争いは、個人と個人の争いだ。集団と集団、あるいは個人と集団の争いではない。
現実の戦争というのは言うまでもなく集団と集団の戦いから始まるが、劣勢の集団はだんだんと個人へと分解されていき、しまいには集団から個人への暴力(処刑や虐殺)へと的を絞られていく。
そして、宇宙人から地球人への攻撃は、先ほども「一人一人殺していく」と書いたように、集団から個人への攻撃だ。
現実の戦争が「集団対集団→優勢の集団対劣勢の集団→集団対個人」という道を辿るものであると単純化すれば、「宇宙戦争」は「最初から集団対個人」だ、と言える。
最初っから、末期の様相を見せている戦争。理不尽極まりない。
一応は同じ論理体系を持っている人類同士でも、こういう理不尽は起こりえる。実際には、そんな始原的な部分での共通なんてものは殆ど効力を為さないために。
その極致を映画の形で描いたものとして、「宇宙戦争」が在るのだと思う。
理不尽(理屈に合わない)というより不条理(理屈じゃ説明できない)の域に入っている、と言えるかもしれない。
以前の記事でこの映画を薦めてくれた
一斗さんと、
目も眩むようなレビューを書いた故伊藤計劃さんに感謝。