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魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語

○はじめに
とんでもないサイコレズ映画でした。

○感想
2011年4月、紆余曲折を経て放送されたTVシリーズの最終回は絶賛をもって視聴者に迎えられた。スタッフの技術の結晶である最終回の出来、そしてそれに対する絶賛の空気の中、結末に対する“ツッコミどころ”は殆ど黙殺された。
黙殺。その言い方は正確ではないかもしれない。自分が感じた印象を率直に語るならば――
「賛」の側に居る大勢はその“ツッコミどころ”を意識の外に追いやり、
「否」の側に居る少数は過去の虚淵作品との比較等の分析を行いつつ批判しながらも、多勢に無勢、いつしか消えていった。
自分はどちらかと言えば前者に含まれる。“ツッコミどころ”にもやもやしつつも、絶賛せざるを得なかった。だからこれは言い訳になるが、「意識の外に追いやり」などと「思考停止認定」のようなことを書いたのは、自戒の意味が大きい。
そしてこれもまた言い訳じみているが、後者を「消えた」などと書いたのは、あの最終回以降、自分がその批評力の鋭さに感心していた何人かのツイッターユーザーが、まどマギに批判的な感想を残したあと、アカウントを消すなどしてタイムラインから消えていったからだ(まどマギ批判はそうした行動に追い詰められた「原因」というよりは、そうした行動に向かう「兆し」に過ぎなかっただろうが)。
では、その“ツッコミどころ”とはなんだったか。
至って単純。

「まど神様が何でも出来るんだったら、魔法少女が消滅するシステムじゃなくて蘇生するシステムを造ればいいんじゃないの?」

それを言ってしまっては身も蓋もない、というツッコミどころではある。
でも、やっぱり避けては通れないツッコミどころだと思う。

「まどマギは『社畜アニメ』」。
あの結末を端的に批判する、秀逸な一言だと思う。
巨大なシステムのもとで、文字通り心身を砕いてきた者が最後の刻に至るとき、その戦いの日々を優しく肯定してやる。安らかに看取り、輪廻の外へと導く。

犠牲を強いるシステム自体を破壊する、という結末では無かったのだ。
犠牲を以てシステムを、優しい救済が約束された形に改変する、という結末だったのだ。

この結末、というより結論に、自分はそれほど不満を持っていたわけではない。
そもそも自分は、巨大なシステムの破壊、という結末にはそれほどリアリティは感じない。軽はずみに「リアリティ」などと言うと語弊がありそうだが、ともあれ、好みの物語の型ではないことは確かだ。そう思うのが何故かと考えると、ソ連の崩壊だ大きな物語の崩壊だというスケールの大きな批評的理由よりは、自分自身の境遇が根ざしているように思う。
自分は「システムの上で生きること」を選んだ人間だ。幾度か逸脱を考え、挫折に陥ったが、原点のシステムに乗っかることが最良だと結論し、それを選択した人間だ。
自分があのTVシリーズの結末を見たのは、まさに大学を辞め、社会システムの下での再起を図って浪人し始めた、不安な時期だった。だからきっと、あの結論に、自分の選択の肯定のようなものを見出していたのかもしれない。
今はその選択も報われ、ひとまずはシステムに乗るべく安定したところだ。
安定はしたし、選択を覆すつもりなど少しも無いものの、いくらかの後悔はある。
だからこそ、だろうか。『叛逆の物語』の公開が迫るこの頃、TVシリーズの結論には概ね満足だったけれど「その先」を見てみたい、という気持ちが非常に強まっていた。

では、実際に『叛逆の物語』が見せてくれた「その先」とはなんだったのか。
やはり、巨大なシステムの破壊、だったのか。
“叛逆”と呼ぶからには、魔法少女システムをもたらすオーバーロード、キュゥべぇを滅ぼすのか。
そうではなかった。そりゃそうだ。なんせ、オーバーロードどころかオーバーマインドが生まれた世界の話なんだから。

先ほど言ったように自分は、巨大なシステムを「破壊」する物語を好まない。
しかし、巨大なシステムに強烈な意志――とりわけ悪意に分類される感情をぶつけ、自らを焼き付けてやるような物語は大好きだ。
ファイトクラブやダークナイトなんか、まさにそうだろう。
魅力的な悪役――ヒール、ヴィラン、あるいはダークヒーロー――が、完全なる正気のもとに、狂気じみたテロを行う。その「狂気じみた正気」の根本には何かへの「執着」がある。その執着の前には、他のことなんか知ったこっちゃない。

『叛逆』は、まさにそうした物語だったと思う。ほむらが、まどかへの執着(劇中では、はっきりと「愛」と言っている――これを台詞で明確にすることにはスタッフでも議論があったらしい)のもとに、システムを律する存在に対して叛逆の意志を示す。

何より面白いのは、叛逆の意志を叩きつける対象だろう。
魔法少女システム(=キュゥべぇ)ではなく、なんと、円環の理というシステム(=まどか自身)なのだ。
まどかの犠牲の果てに得られた救済のシステムを否定し、喪われたまどかを希求する。「サイコレズ」と呼ばざるを得ない、アウトローとしてのほむらの覚醒の物語だったのだ。

本作では、執拗に「円環の理」のモチーフが描かれる。
ほむらのソウルジェムが渦潮の中を回る冒頭。
まどかを中心にしてぐるぐると追いかけ合うさやかと杏子。
巴型を為して空へ上る、ひとみと恭介。
ナイトメアをお菓子にして円卓を囲んで歌う、魔法少女達のお茶会。
見滝原から出ることなく、市内を循環し続けるバス。
くるくるとバレエのように踊りながら変身する、魔法少女達。
英題の「rebellion」にダブルミーニングを持たせるがごとく、近接して互いに回り込みながら撃ち合うほむらとマミ。


対して、ED後のパートでは、破壊された円環の理のモチーフが描かれている。
半月、というよりは半分に削られた満月、と呼ぶべき形で浮かぶ月。
旧作より増していた体の丸みをすっかり失い、ふさふさのぎざぎざになってしまったキュゥべぇ。

このようなモチーフに代表されるように、ほむらが円環の理に叛逆する、という物語なのだが、そうなるまでには幾重かの入れ子構造を経る。
実はほむらの妄想に過ぎない楽しげな世界、実験材料として囚われた現実のほむら、妄想世界に介入する円環の理とその手下の魔女たち、そんな救済の使徒を利用して世界を書き換えるほむら。
こうした構造の移り変わりが、目まぐるしく行われる。
いささか説明過剰な感があったTVシリーズや総集編映画と異なり、その転移に伴う説明台詞はあくまで最低限度に刈り込まれていた。
説明台詞の代わりに、劇場用にダイナミックになったイヌカレー空間や、画面狭しと動き回る魔法少女たちが、異様な密度で世界の転移を見せてくれる。そんな映画になっていた。

今考えれば、昨年全国の劇場で上映された『始まりの物語』と『永遠の物語』が(「映画」としての画面や脚本構成の工夫はありつつも)頑なに「総集編」の枠に収まっていたのは、それこそTVシリーズの「ループもの」として性質を守り、この『叛逆の物語』の「ループ破壊」に寄与するためだったのかもしれない。

自らが望んだループから脱出したのと同時に、少女から神と化したまどかの作ったループに従うことになった少女ほむらが、自らの作ったループに囚われ、そこから救い出そうとするまどかを無理やり取り込んで、神と対立する存在である悪魔と化す。
対立すること。言い換えれば、並び立つこと。
まどかを救う願いのために空回りし続けるほむらでもなければ、神と化したまどかに救われるだけのほむらでもない。
TVシリーズは「ほむ×まど」が「まど×ほむ」へと「逆転」する百合アニメだったが、そこからさらに「叛逆」するサイコレズ映画だった。

サイコレズサイコレズ言うとほむらを狂人扱いしてるようだし、まぁ実際狂人ではあると思うのだが、それでも、先述のように「正気のもとに狂気を行う」という状態を結末に合っても保っていることは明確に読み取れる。
それは、「まどかが居れば他のことは知ったこっちゃない」態度でありつつも、悪魔である自らへの抑止力となりうる魔法少女や魔女の存在を認めていること。そして、まどかが自分の選択を否定する未来すら受け容れようとしていること。
視野狭窄気味だったTVシリーズのほむらに比べて、こういう寛容さは「成長した」と言える。まぁ、「まどかしか見えていない」選択を為す点では視野狭窄が進んではいる、とはいえ。
ともあれ、ひとまず「まど×ほむ」と叛逆した関係が、再び「ほむ×まど」へと逆転する可能性すら受け容れている。これこそが、「並び立つ」関係性の完成を示しているのではないか。

「教義の為なら神をも殺す」
そんな台詞が思い浮かぶ、実に好みの物語だった。

○まとめ
「まど神様が何でも出来るんだったら、魔法少女が消滅するシステムじゃなくて蘇生するシステムを造ればいいんじゃないの?」
この“ツッコミどころ”に対して、どう出るか。どう“叛逆”するというのか。
昨年の劇場版が終って予告編が流れたときから気になっていた疑問であり期待でした。
そして、やはりと言おうか、単純に「0に還して蘇生する」という答えではありませんでした。
TVシリーズでまどかが辿り着いた、犠牲を肯定し救済するシステムを0に還すのではなく。
あくまで、ほむら個人の執着を極限へと昇華し、システムと化したまどかと並び立つこと。
それが、示された答えでした。
ほむらというキャラクターの極端な部分を真摯に見つめてさらに極端にした、そんな素晴らしい答えだったと思います。

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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q(evangelion:3.0 YOU CAN (NOT) REDO.)

(ネタバレ有)
「序」は旧作の再構成としての性格が強い映画でした。「破」はそのタイトル通り、大きな変革はあれども、やはり大筋は旧作と共通しており、細部の比較は普通に可能な映画でした。自分も「破」についてはこのブログで、そうした視点で感想を書いていました。
 
 しかし、「Q」はのっけからそんなスタイルでの鑑賞を拒むつくり。何せ、浦島太郎。自分の状況がまったく把握できなくなってしまったシンジ君同様、何が起こったのかわからない、ある程度わかって自ら進もうとしてもやっぱりどういう反応をすべきなのかわからない、そんなかんじで最後まで見ることになりました。

 まさに「Q」。巨大なクエスチョンをポンと投げられたわけです。「よくわからないアニメ」と言われながらも、さすがに十数年の歳月と何万もの視聴者が殆どの謎は解き明かし、ファンならばそういった「予備知識」を持った状態で新劇場版に余裕をもって対峙できた。また、新劇場版そのものも、旧作よりはエンターテイメント路線を優先しており、新要素を含めても「よくわからない」とこは随分少なくなっていた。

 そんな中で「Q」は、再び「よくわからない」ものとして我々の前に姿を現しました。
 
 自分の「初エヴァ」は漫画版でした。漫画版のシンジはアニメ版とはちょっと異なり、「前歯全部折ってやる!」なんて熱いところもあります。そんな漫画シンジへの思い入れもあって、「破」ラスト、シンジ君がいわゆる「シンジさん」状態に……つまり自らの意志で綾波を救おうと神域へ達するクライマックスにはいやがおうにも興奮しました。旧劇場版で、自ら何をなすことも出来ず神域へ拘引されていったシンジ君とは対照的でしたから。「行きなさいシンジくん!」と叫ぶミサトとシンクロしていたといってもいいでしょう。

 しかし、自分はミサトとはシンクロ出来ていなかった。いや、あの時点では出来ていたのかもしれないけど、そのままの状態で変わることなく、その後の事を考えることもなく、ただ時間を過ごしていた……と言った方が正しいでしょう。まったく無邪気だった。シンジを応援する他者の視点に立っていたつもりで、実際のところ、まったくシンジのままだったというわけです。
 
 もっとも、この「俺がシンジだ」という考えは思い上がったものです。己の姿は「インフィニティのなりそこね」にこそ映っています。あくまで旧作を思わせるアニメ表現のままに「残骸」を描いていたがゆえに、旧劇場版の例の実写パート以上のいたたまれなさをもって迫りました。
 
 さて、自分語りが長くなった気がしますから、中心をあくまでシンジに戻そうかと思います。なんせ、今作はシンジ君の話です。三人目的な何かになってしまい命令に淡々と従うのみの綾波レイ、幼いエリート意識が強いプロ意識へと変わった式波アスカ・ラングレー、相変わらず掴みどころのない真希波マリ・イラストリアス。彼女らはそれぞれに戦闘要員として物語上に配置されており、思春期の少女としての不安定な葛藤や魅力がどうこうといった、ヒロイン論争の余地はほぼ残されていません。みんなシンジを置いていっちゃいました。今作はシンジ君の話なのです。
 
 シンジ君とカヲル君の話、といってもいいのかもしれません。実際、少女らが後ろに引いたせいもあって、シンジとカヲルの同性愛っぽい描写は、この作品唯一のコミュニケーションパートとして輝いているかんじすらあります。まさに「アダムとアダム」、テレビ版以上に濃厚なものでした。

 しかし、彼らの関係性もやはり今までと異なっております。パンフレットで声優さんが述べられているとおり、「対等」の関係が強調されていると思います。旧作でのカヲルは、絶望しかけたシンジに手を差し伸べてあっちの世界に連れてってくれる存在でした。漫画版では、常人には理解しがたい異質さと残酷さが強調される存在でした。どちらもそれぞれに神あるいは天使の性質が感じられ、その超然としたキャラクターや避けようのない結末もあって、「対等」ではありませんでした。今作の場合、ピアノの連弾やエヴァのデュオ操縦に彼らの対等性は象徴されていますし、カヲルもシンジを真実へ導くというよりはただ見せるという立ち位置ですし、相応に己の状況に狼狽するところもありますし、旧作や漫画版のような断絶はないように見えます。しかし、カヲルとの関係性も、シンジが彼を置いていき己の目的意識を満たそうとすることで、またも断たれることになりました。

 そんなわけで、キャラ論争に入れ込む余地が無くなっちゃいました。少なくとも、キャラ萌え論争へは逃げ込めなくなりました(自分はよく逃げ込みます)。どうしても、シンジという主人公に、彼が立たされた場所に、向き合わねばならなくなったのです。この「真剣に向き合え」というメッセージは旧劇のような「反則技」を用いることもなく投げかけられてきたから、「反則技を非難」することで何とか狙いをそらすこともできません。

 シンジのみが昔のまま。そのことは、キャラ作画にも表れていると思います。「輪郭が歪んでいる」「影が少ない」「フリクリかよ」など、公開前には色々言われた、今回のキャラの表情作画。自分も公開前までは「大丈夫なのか?」と思っていましたが、実際に見てみると、「なるほど、そういうことか」と。要するに、シンジのみが「破」のままなんですね。話的には先述したとおりだけど、絵的にもそう処理されているのです。
 
 例えば、アスカの表情変化。非常に激しく、手放しに可愛いと呼べるものではないでしょう。しかし、戦闘中のそれも、旧劇のように「形相」とでも呼ぶべきものではありません(※777時を除いては)。目に、眉に、口に、顎に、頬に、あらゆる顔の部位に反動がついたように、躍動的に表情が変化するキャラデザとなっています。マリも猫っぽさが増し、口をωにしてにやけている表情など、「破」とはかなり異なっています。ミサトやリツコも年齢と立場相応に骨ばり、鋭さが増し、しかし感情をあらわにする場面では、輪郭をかなり崩して表情が動きます。「フリクリっぽい」とかという形容は確かに正しいのでしょうが、「序」が旧作の不安定な作画を再利用的に引き継ぎ、「破」がキャラデザ面で安定した作画を最後まで貫いたことを考えると、「Q」の方向性については、最近の「表情豊か」と言われる、二次元イラストから豪快に崩しつつもそれが受け入れられているテレビアニメのいくつかに対する回答なのかな、とも思いました。
 
 対して、シンジはあまり「破」と見た目が変わりません。感情を高ぶらせ表情を大きく動かす場面もありますが、とはいえ他のキャラのようにイメージが崩れる(崩す)ほどではありません。シンジに近しいカヲルやレイ、シンジより表情変化に乏しい二人でさえ、イメージの異なるカットは彼よりずっと多くなっています。
 
 今回の独特な作画を全肯定するわけではありません。実際、いくつかの場面では、「イメージを崩す」作画の必要性が感じられず、違和感の方が先だった箇所もありました。しかし、大体の場合、そんな違和感が、安定した作画のシンジが持つ「安定したままでいたが故の不安」にシンクロして、結果として絶妙な効果をもたらしていたと思うのです。

 そんな中で、わりと素直に「可愛い」と言えたのが、新キャラ(一応「破」で出てるけど)の鈴原サクラです。リスっぽいというか、兄の持っていた愛嬌を受け継いでいるかんじもあり、シンジへの態度も比較的柔らかいので、個人的には今後が気になります。それは別に可愛いからってだけでは勿論なく、彼女の立ち位置も際どいものだから。何せ、シンジの戦いに巻き込まれた、顔無き被害者の第一号ですからね。昔は三号機のコアにされちゃった説もあった彼女。「序」で戦闘の付随的被害を受けながら、「破」で幸せな日常を取り戻し、しかし全てを失い、シンジに対しては兄との友情を感謝しながらも、やはり「エヴァにだけは乗らんで下さいよ」と戒めざるをえなくなっている。次回作では、シンジの贖罪の象徴ともなりえるでしょう。
 
 何もしなかった結果の絶望を描いた旧に対して、Qは何かをなした結果の絶望を描いている、と言えます。「この惨状の原因はお前だ」と現実を突きつけられるけれども、人々は責任や贖罪を求めてくるわけではない。「もう何もするな」と、否定のみを下す。そんな人々から逃れて過去へと還り、新しい友誼をえて、また何かを為そうとしても、やはり父の掌の上で残酷な結果へと至る。命令に従って事を為すしかないnerv(神経)に対して己に従って行動を為すwille(意志)、という形は、それぞれが扱うエヴァにすら現れており、AKIRAめいた13号機がああして利用されるだけの存在で、Mark.9も搭乗者の意図とは関係なくただ本能に従って動くことになる。しかし、そこから這い出たシンジとレイをアスカが導く、というラストにはやはり旧劇と対照的な希望の形が見えます。
 
 浦島太郎状態のシンジは、エヴァに乗ろうとする意志は捨てていませんでしたし、「これまでに起きたこと」と向き合わされ、その意志が揺らいでも、新しく得た信頼関係に拠って立ちあがろうとします。しかし、その結果があれ。この裏目裏目ぶり、見ていて心が痛くなってきました。14年という期間は人が変わるのには十分すぎ、しかし12000年っていうわけではないから殆どの近しい人は生きているから逆に辛い。世界もあまりに変化してしまい、その間を十分に知ることも出来ない。これまでの経緯(旧作含め)をあまりに知っているがゆえに「14年の間に何があったのか」を想像させられ、しかしわからないところも多いので不安なまま、激しい映像美に飲まれる。「主人公と観客を突き放す、しかし引き込む」、その力加減が、エヴァでもなければできないことだな……と感じたのでした。
 
 これまでの経緯(旧作)を観客が知っている、ということを利用した場面としては、冬月による告知のとこが挙げられるでしょうか。物語の大きな謎として、物語を導く一つの意志として、存在感を示し続けてきた碇ユイというキャラクターですが、今回はシンジがあれこれ悩む余裕もないうちに、畳み掛けられるようにその過去が語られました。今回はユイはゲンドウ(と冬月)の執着の対象として配置されており、シンジにはそれほど影響を及ぼす余裕もないまま終わるのでは、とすら思いますね。エヴァの暴走(=ユイの母性の発露?)だって序の最初だけだし。世界を犠牲にすることの結果を考えず熱狂のままにレイを蘇らせようとしたシンジ、犠牲をあくまで結果でなく過程として冷徹に理解しユイを蘇らせようとするゲンドウ、子供と大人の対比が際立っています。「目的優先、人命軽視」がモットーになってしまったミサトもでしょうか。


 これまでの経緯(破と急の間)を観客は知らない、ということを利用した演出はいくらでもある、というか全編にわたってそんな調子ですから、ここではあえて本編の外を挙げてしましょう。そう、上映前に流れる「巨神兵東京に現る」です。特撮博物館で先行公開された際の反応を見ると「面白かったけど、『庵野さんこれやりたかったんだろーなー』感が先立つ」というものが多く、また、今回僕が劇場で見たときも、そんな印象ではありました。しかし、Q本編が始まって、中盤になり、カヲルに「14年間」の残骸としての下界を見せられる場面で、カチッとはまるんですよね。滅びた街と、巨人の残骸。これって、火の七日間じゃねーか、と。勿論そのものではないから、「観客に想像させる」という形を崩すことなく、あくまで「14年間」のイメージとして、フラッシュバックが起こったのでした。これまた、旧作の実写パート挿入という「反則技」を避けつつ反則技以上の効果をもたらす演出だったのではないかと思います。
 
 そんなわけで、「旧作との細部の比較を拒むつくり」などと最初に書きながら、なんだかんだで細部の比較をしてしまいました。やっぱり逃れられないのです。エヴァの呪縛ってやつでしょうかね。
 
 ラストまで一応語ってしまったので、あとは論旨からはみでてしまったあれこれを項目ごとにいくつか書いて終わることとします。

・モノリスisモノリス?
ゼーレの老人たち、新劇場版ではキール議長すら顔を出さず退場することになりました(バイザーだけがゲンドウに受け継がれたw)。こうなると彼ら、人間としての実体があったかどうかすら怪しいですよね。ゲンドウの「あなた方は我々に文明を授けてくれた」というセリフを考えるに、本当にモノリス(2001年のアレ)そのものだったのではないか。某QBがモノリスを擬獣化したものだったことは記憶に新しいですが、彼らも、宇宙からやってきて人類に知恵を授け監視する存在だったんじゃないか、とすら。まぁ、それだと、冬月が電源(?)を切っているとこが引っかかることになりますし、恐らくは脳髄だけがどっかにぷかぷか浮いてる、というようなアレなんでしょうが(モノリス消えるときに脳髄が映るし)。

・加持さんどこいった
「破」ラストの予告には、銃をこっち側に突きつけてる加持さん映ってたけど、どこいったんだろうな……。現在のミサトや高雄(大塚明夫ボイスの人)の言からは、ひっそり死んでしまってる感があるが……。「破」ではアスカとの絡みも無くなり、ミサト語りとホモネタとスイカ話担当のイケメンでしたが、もう出てくることはないのか……?まぁ、ネルフ接収編をぶっ飛ばした影響であろう予告との齟齬は他にもありますが。
 もっとも、「破」ラストの予告は「Q+?」の予告でしたから、「?」(シン・ヱヴァンゲリヲン劇場版:||)でそれらが描かれる可能性もあります。でも、この調子で物語が進められると、そんな過去を振り返ってる余裕なんて無さそうだよな……。
 ところで、今回のミサトって自分の父の意志を姿とともに本当に引き継いだかんじがあってかっこいいよね。加持の遺志も引き継いでしまったのか……?

・綾波の着替えシーン
相変わらずいいケツしてる……のだが、どう考えても浮いていますよね。「破」は10分に一回は給水所のようにEROが設けられている親切設計でしたが、「Q」でも少しはそれを引き継がなきゃならなかったのか……。どう見ても着替えしているシルエットなのに気づかずに突入するシンちゃんは流石の主人公体質でしたが、笑えるやら笑えないやらで困ってしまったぞ。まぁ、カヲル君のホモ言動のあれこれでは存分に笑ったが。

・Mark.9
後頭部から体積を無視して何かが生えてくるの、フリクリで見たわ(去年やっと見た)。

・ネルフの○ンコ君
スピーカーとの位置がそんなによくなくてな、音割れもしてるくらいでな、そう聞こえたんだよ。仕方がないだろ。

 さて、こんなところで、今回は終わりということで。
人も世界も変わっていくものですが(※1)、変わらないこともある(※2)。
繰り返すことはできても、やりなおすことはできない。
放浪の果てがいかなるものになるか、本当に楽しみです。

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テーマ : 日記
ジャンル : 日記

涼宮ハルヒの消失

2月6日から公開のアニメ映画『涼宮ハルヒの消失』の感想。
公開開始日に観に行き、二回目にも行ってきたんだけど、感想は遅くなっちゃった。すいません。


○概容
ライトノベル「涼宮ハルヒシリーズ」の第四巻が原作。
昨年放送されたアニメシリーズの続きに当たる。

クリスマスまであと一週間。主人公キョンはいつものようにハルヒの思いつきに振り回されながらも、平和な学校生活を送っていた。
12月18日の朝、そんな日常が突然変わってしまう。
昨日とは打って変わって風邪が流行している教室、“転校”したはずの朝倉涼子の登場、学生名簿からも消えたハルヒと古泉、キョンのことを全く知らないみくる、普通の眼鏡っ娘文芸部員になってしまった長門。
不安に陥るキョン。
パラレルワールドに迷い込んだのか、それとも世界が改変されたのか。
世界に取り残されてしまったキョンの、孤軍奮闘が始まる。


○感想
テレビシリーズを視ていた人にとっては、最初にちょっとした違和感(と言うと制作者に失礼だけど)を覚えるかもしれない。
モブキャラ、というより北高の生徒たちがテレビシリーズ以上にいきいきと動いているということ。
雑談に興じたり、廊下を元気に走ったり、友達同士なり恋人同士なりでじゃれあったり。
そりゃテレビシリーズだって、何から何まで良く動いている高品質なアニメーションだったけれど、劇場版ではそのレベルではなかった。

なぜ生徒たちはそのようにいきいきと描かれているのか?
勿論、「劇場版だからアニメーターがいつも以上に作画を頑張った」というのも理由の一つだろう。
しかし、もっと根本にさかのぼって考えれば、これは「キョンが置かれた状況を痛々しいまでに鮮明化する」ための描写なのではないかと思う。

主人公キョンは他のSOS団メンバーに比べ、能力や属性的には「その他大勢」(=モブ)の方に近い。
けれども、作中の役割においてキョンは明らかに「その他大勢」とは一線を画していることは言うまでも無い。
まず、一人称視点で描かれるこの作品における語り手である。また、SOS団内では何だかんだで最大の支配力を発揮していたりする。

『消失』ではSOS団、つまりキョンが最も目立つ場所が消失してしまう。
いきいきと学園生活を楽しんでいる周囲からは完全に取り残されている様が浮き彫りになる。

「ハルヒが居ない何で朝倉が居るフガフガ」と騒いでいるキョンは、傍(=モブ)から見れば、『消失』のキョンは完全にただの電波君だ。
いつもはハルヒの蛮行にグチを叩いている癖に実はもうSOS団無しでは生きていけないキョンの姿が痛ましい。

『消失』はキョンが「もう自分は『その他大勢』には戻れない」ということを自覚する物語だ。そのことを、説得力をもって伝えるために、普通の学校の風景を丁寧に描いてたのだろう。
だからこそ、中盤の「俺はハルヒに会いたかった」って言葉のインパクトが増していたのだ。

描写の細かさは、「モブがよく動いてる」というところのみに留まらない。
メインキャラの表情の豊かさが特に凄い。本来あまり目立たないハルヒも、短い登場時間でそのキャラクターを十分主張している。
キョンが自らの置かれた状況に不安を覚えたり希望を見せたりする様には思わず同調させられてしまう。
長門は可愛い(後述)。
古泉は体操服姿がEROい。
みくるは…あんまり目立って無いが…まぁそういうもんだよな…。
キャラの表情だけでなく、背景の小物にも気が利いている。
例えば、ハルヒがホワイトボード一杯に「SOS団クリスマスパーティ」と書くところ。字が大きすぎたために一行目には「SOS団クリスマスパー」までしか書ききれず、「ティ」は二行目に下ろされている。彼女の勢いのよさと無計画さが表れていて、思わずクスリとさせられてしまった。

後半のキョンの自問自答パートなんかは精神世界のビジュアルが些かクドく見えるかもしれないが、語り手の訴えかけが力を持って迫ってくる。
終盤、キョンと長門が病院で会う舞台は、雪が降り夜景の煌めく屋上。実に情感をかきたてる場所が採用されている。原作では病室で二人が会話を交わしており、もう少し地味なシーンであった。
基本的には“原作に忠実に”タイプのアニメである今作だけども、これらのようなアニメならではの演出も大きな見どころだ。

さて、ここからは俺のシュミの話になりまする。

消失映画の何が最高って、消失長門が可愛いことだ!

俺はもともと長門が好きだ。
ただ、普段の長門よりは消失の長門が好きであった。
だって、恥ずかしがり屋で、小柄で、文学少女で、実は可愛い眼鏡っ娘なんて…最高じゃないですか…。
ナガトスキー(長門愛好者)の間では、消失長門好きは異端視されるという。
だが、俺はもう異端審問など恐れない!

いやぁ、これまで僕は、「あのヒロインが好きだ!このヒロインが好きだ!」と節操無しに言いまくってきました。彼女らの見た目や性格や属性は一見バラバラであります。しかし、実は共通点があるのですよ。
何というか、僕は「儚げな雰囲気」というのに弱いんですよ、結局のところ。
例えば綾波とか長門が好きな理由についても「無表情無口系が好き」というよりは「今にも折れそうな儚さが好き」というところに拠るものが大きいのですな。
人の夢と書いて儚い。まさにマイドリームですよ、ええ。

小説の挿絵では何故か消失長門も眼鏡を付けていなかった(多分ただのイラストミス)ので、映画版を観る前は「挿絵のイメージに引きずられて、眼鏡に違和感を覚えるかもな…」と心配であった。
しかし、これは当然杞憂に終わった。眼鏡とは、一枚の薄板を通さなければ世界を見れない人間のためのもの。そう、照れ屋の消失長門にはピッタリの小道具なのでした。
(※『氷室の天地』作者の磨伸映一郎氏による消失眼鏡考が面白かった。隠匿と障壁、そして日常、か…ささすが眼鏡フリーク…。)

ここで俺は声高に唱えよう。
やっぱ眼鏡はあった方がいいって!
…と。

もう、照れる顔とか泣きそうな顔とか笑顔とか、やばいですよ。
悶え死にますよ。マジで。

しかし、この話は悲しいことに「消失長門との断絶」の物語であります。
この物語は「キョンが自分の居場所に気づく話」というだけではなく「てめえが可愛い文学少女との素敵な出会いを望んでるなら…その幻想をぶち殺す」という話でもあるのです。
おそらく、わたくしは一生、現実であんな可愛い文学少女に出会うことはなく死んでいくのです…ギギギ…。


○まとめ
去年のテレビシリーズ二期は「エンドレスエイト」と「溜息」を新規追加するのみに終わってしまった。
あまりに実験的すぎる構成であった前者。元々冗長な展開に「一話=原作55頁分ジャスト」というよくわからない縛り加えた後者。どちらも、正直言って満足できなかった。
終わった時には「なんで二期で『消失』をやらなかったのかなぁ…」と思ったものだった。
しかし、劇場用に丁寧に作られた『消失』を観て、「映画でやって良かったな!」と考えを改めさせられてしまった。
キョンが右往左往しながらもパズルピースを一つ一つ埋めていく様子は、劇場で一気に見てこそ最大限に気持ち良く感じられるものだろう。
消失長門をはじめとするキャラの細かい仕草、時折見られる気持ち悪いくらい滑らかな動き(「ぬるぬる動く」って奴ね)など、劇場版でこそ存分に描けるだろうものも多かった。
この丁寧な作りをこれからも続けてほしいと思う。


「こっからはさらにキモい話になるから気を付けて…!」


○ERO
・全体的に脚がEROい。危うい細さでありながら肉感的。頬ずりしたい。
・長門の「あ…」とか「ん…」とか、口下手なりの反応がね…その…フフ…喘いでいるようd
・原作では、「読書中の長門をキョンがじっと見つめる→長門はキョンを意識しないようにしてるんだけどどうしても反応が出てしまう→キョンは赤面した長門の薄い胸の鼓動を、制服越しに見て取る」という、フェチズム溢れるEROい場面があったんですが、そこは映画ではあっさりしてましたね。悔しいのう。

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林檎の誘惑

80GB分もの曲やら動画やらが入るiPodを購入して、早一年。
今まではCDから曲を抜き出して、細々と楽しんでいた。
CDの内容の殆どは、お察しの通りゲームサントラとアニソン。あと映画主題歌(ていうか007演歌)も。

しかし、このままではあかんのですよ。
もっともっと聞かないと。

アニソンを、ね(「流行歌は…?」などのツッコミ禁止)。

ここ1,2年はかなりの数の新作アニメを追っていた(追われていたとも言う)。
気に入ったOP・ED曲もたくさんあった。でも、全部CDを買っていたら資金・労力・置場の消費が嵩むこと間違いなしので、せいぜい一期(3か月)にシングル一枚程度を買うというペースに留まることに。

でも、よく考えれば、今の時代、ダウンロード販売というものがあるではないですか。
ていうか、iPodユーザーなのだからiTunesストアを利用すればいいではないですか。
(※もちろん、ニコニコ動画あたりに流れているアニソン動画を変換して…という方法はあるのだけれど、どうも気に入らないのでそういう手段はナシ。金は落とすべきものだ。)

iPodという商品は、本体それ自体ではアップル社にとっては利益を生まないものらしい。
むしろ、売れば売るほど赤字が出るのだとか。
では、どのようにして元をとっているのか?言うまでもなく楽曲のダウンロード販売によって、だ。

つまり、iPodを持っているくせにiTunesストアのダウンロード販売に一切手を出さない俺は、アップル社にとっては最もイヤなタイプの消費者というわけだ。
そんなわけでこれまでの俺は、持前の反骨精神(笑)から、「iPodを愛用する!しかしアップル社には儲けさせねぇ!」というダークヒーローを気取っていた。
いや、ダークヒーローというよりはツンデレだ。

iPodを買ったの。便利だって聞いたからなんだからねっ。べ、べつにアップル社みたいな巨大企業のためじゃないんだからねっ。

しかし、子供がやがて大人になるように、ツンデレにもデレ期が来るものだ。
まぁ俺に関して言えば、20を越しても全然大人になった気がしないわけだが、とにかくツンデレにはデレ期は来るものなのだ。

ためしにiTunesストアを見てみたのですよ。
フツーにCDを買うよりは随分安く曲が買えるではないですか。
そりゃ、CDのディスクやらケースやら歌詞カードが無いから当たり前っちゃあ当たり前なのだろうけれど。
「巨大企業が潤うほどのダウンロード販売…きっとぼったくりに違いない…」とか思いこんでいたけど、これなら問題ない。アップル社にデレざるを得ない。

よっしゃ、掻き集よう。
鉄風雷火の限りを尽くし、三千世界の鴉を殺す、嵐の様な蒐集を始めよう。
「戦争!戦争!戦争!」

今のところ、弾倉には5000円が装填済み。一曲200円として、25曲。一つのアニメのOPとED主題歌の両方を買うとしたら、アニメ約12本分。二クール目で曲が変わるものもあるから、実際はそれより少なくなる。
…あれ、思ったより弾薬不足では…。もしかして、本気でかき集めるつもりならば結構な量の実弾が必要なのか…?

まあいい、とりあえず曲目リストアップだ。

…。
しかし、結構骨が折れる。
とりあえず、視聴アニメリストをまとめる仕事から始めるお…。

エンドレスエイトpart5と綾波の笑顔

まぁ、「まだエンドレスエイト見てんのかよ、しかもまだ5話目かよ」とか言わないでくださいなそこの人。一応、全部見ましたよ。
んで、エンドレスエイトpart5(涼宮ハルヒの憂鬱 第16話)で気になった一場面について、エヴァヲタ(というかアヤナミスト)としての視点から語ろうかと。


「ビーム受けた零号機の気持ちがよくわかるぜ」

炎天下での着ぐるみバイトを終え、控室でぐったりするSOS団の面々。
信じられないほどの暑さを評してキョンが何気なく呟いたセリフだ。

「エヴァのパロディか」「ああ、エヴァもハルヒも角川グループとのかかわりが深いしな」「脚本か声優の気まぐれくさいパロだな」「ワロタw」で片付ければいいような、どうでもいいセリフに見える。

が、このセリフの少し後に出てくるカットのせいで、「ん、あのセリフってもしかして一種の仕掛けだったのでは?」という思いが湧いてくる。
そのカットとはどういうカットかというと、
「主人公が、ヒロインの綺麗な笑顔についつい見蕩れ、息をのむ」
というもの。

ここで、「零号機」、「笑顔」といったキーワードから連想されるエヴァの名場面を思い浮かべてほしい。
そう、綾波レイがシンジに笑顔を見せる場面だ。

しかし、エンドレスエイト5の件のシーンにおけるハルヒの笑顔は、さほど印象的なものではない。スローで回すなどの工夫を取られていない。
また、キョンが息を呑む描写もわかりにくい。
「今までにない笑顔に見蕩れている」ことを視聴者に伝えるにあたって、画面上の主人公とヒロイン以外のものに依存している…と言える。
何に依存しているかと言えば、

a・原作小説やエンドレスエイト1~4で「ハルヒの満面の笑みにキョンが見蕩れていた」と、視聴者が覚えていること
b・ハルヒに見蕩れるキョンの表情を覗き込む、古泉の意味深な笑み

これらの二つだろうか。
つまりは、場面を見せるにあたって視聴者の記憶に頼っているというわけだ。乱暴に言いかえれば、(エンドレスエイトシリーズで重要な要素である)デジャブを利用している。

そして、
c・キョンの「零号機の~」発言から連想される、綾波レイの笑顔
が補助することで、この控室での一場面は、より視聴者の印象に残りやすくなる。

「ヤシマ作戦後の綾波の笑顔」と一口に言っても、それが描かれたメディアによっていくつかのバージョンがある。
造作が崩れているものの、綾波の不器用さを表現していると言えなくもない、テレビ版。
キャラクターデザイナーでもある貞本先生の綾波愛が滲み出ている、漫画版。
漫画版をもとにして、アニメならではの動きと輝きを増した旧劇場版。
旧劇場版を引き継ぎながらも、落ち着いた自然な描き方で完成された新劇場版。

ほぼ同じ場面なのに、全部で4種類もある。
それどころか、こう言ってしまってもいいかもしれない。
「視聴者によっては、思い浮かぶ絵が上の4種類以外…独自のものにもなりうる」、と。
つまり、上の4つの違いも作家ごとの解釈の違いの結果である以上、視聴者ごとにも解釈の違いの結果が出て当然だ、と。

エンドレスエイトpart5におけるハルヒの笑顔がさほど印象的でなかった件も、つまりはそういうことなのかもしれない。
あえてイメージを固定化せず、しかし上記a・b(・c)のヒントを残しておくことで、視聴者ごとの解釈の幅を広げる…という。


でも、まぁpart5以外の回では「アッザムリーダーから解放された気分」とか「脱皮した蛇の気分」とか色々テキトーなことを言っているので、この「綾波の笑顔と関係してるんだよ!!!」説は正直言ってこじつけくさいかもしれない。
というか、ほとんどノリでハルヒとエヴァを結んだような理屈を垂れ流してるだけだから、ハナから無理やりくせぇ。
結局のところ、この日記は「ぼ く は ア ヤ ナ ミ ス ト で す」の一言をやたらと長く引き伸ばしたようなものなのかもしれない。

いや、安易な自己批判はやめよう。
ていうか、もう収集つかないから纏めよう↓
「俺の戦いはまだ始まったばかりだ…!」


○追記
こうしてエンドレスエイトから色々と考えてみて、あれは警鐘を鳴らす試みとしては意味があったのかも、という肯定的な気持ちも大きくなってきた。
何に対して警鐘をが鳴らしたのか具体的に言えば、巷のアニメ感想の主流のタイプ…「あらすじ+ツッコミ(+キャプ画)」に終始するようなやり方に対して、だ。

あらすじ…ストーリーというのはあくまで文字情報中心のものなので、これに注視しすぎてしまうと映像作品ならではの視覚情報に対して眼が曇りがち
ツッコミ…草(www)を生やして笑ったりするだけのような刹那的なツッコミ反応を、感想の要と考えがち
キャプ画…動画でなく静止画としての巧拙に注視しがち

どれも、読む側のわかりやすさを考慮していると言う利点はあるものの、やっぱり映像作品の感想としては欠点が多すぎる。
こうならないために、やっぱり動画ならではの見方…カット分析が必要なのだろう。
そのことを視聴者に伝えるために、「同じ話で違う絵のアニメを数週にわたって流す」というのはいいやり方だとは思う(注※観ていて単純に面白いかどうかは別の話)。

自分も気を付けていきたいとは思っているが、専門的な知識も経験もないために、カット分析の真似事かそれ以下のものしか書けない。このままだと歯がゆいとは思っていても、奮起するほどの気概も無いのが俺のダメなところである(また安易な自己批判で今度こそエントリ終了)。
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自他ともに認めるMGS(メタルギアソリッド)フリークス。
その証拠に、当初はもっと幅広く話題を扱おうかと考えていた(←大嘘)このサイトも、ずるずるとMGSネタオンリーブログになりかけてきている。

SFを中心に、様々な作品に触れようと目論んでいる。
が、生来のヘタレゆえ、なかなか数がこなせない。

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