スターリングラード
スターリングラード [DVD] (2001/11/21) ジュード・ロウジョセフ・ファインズ 商品詳細を見る |
なんか、惜しい映画じゃなかろうか…。
映画は、主人公のザイツェフ幼き頃の狼狩りで幕を開ける。
場面変わって独ソ戦。貨物車にこれでもかと詰め込まれる若い兵士達。乗っていた民間人は叩き出され、少しでも空間を捻りだすため、兵士達も立って乗車せねばならない。
息つく間もなくボルガ河畔に到着。今度はボートに詰め込まれた新兵達。スターリングラード市街地に向けて無謀な渡河をさせられる。そこを独軍のシュトゥーカが急降下攻撃。一方的な銃火と爆撃に、パニックを起こす新兵。しかし川に飛び込み逃亡を図った者の背中には、政治委員のナガンリボルバーが容赦なく浴びせられる。
なんとか河を渡りきった先の市街地は、ほぼ廃墟と化している。将校の拡声器から、突撃命令が放たれる。
弾は一人5発。銃は一人半挺…「銃は二人につき一挺が支給される! 銃を持たぬ者は、持つものが倒れたら、それを拾って突撃しろ!」
運悪く、銃を与えられないまま敵陣に走らされるザイツェフ。目の前で倒れた兵士の手元から拾おうとするが、一手遅れて、他の兵士に奪われる。
無謀な突撃。伏射姿勢で待ち構えるドイツ兵の前に、若い兵士達が次々に倒れる。たちまち戦線は瓦解し、ソ連の新兵達は敵に背を向け撤退しはじめる。
「一歩も退くな! 逃亡兵は銃殺する!」
待ってました、みんな大好き督戦隊。拳銃のみならず据付の機関銃まで持ち出して、士道不覚悟の逃亡兵どもに容赦なく鉛玉を浴びせる。
ソ連兵の死体で満たされた戦場に、ドイツ軍の放送が響きわたる。「ソ連兵諸君、我々は敵では無い。兵士達を死地に追いやるスターリンとボルシェビキこそが君達の敵である」と。
そんなこんなで、召集→到着→突撃→全滅を一息に見せてくれる序盤。人海戦術、二人一丁、督戦隊…「ソ連マジどうしようもねぇな…」と思わせてくれたところで、主役の活躍。折り重なる死体に隠れて、いかにもナチでデヴな将校を嚆矢に、モシン・ナガンの1クリップ5発全てを、ドイツ兵の額に叩きこむ。
この功績により彼はソビエトが誇る最高の狙撃兵として祭り上げられ、活躍と葛藤を繰り返すことになる。
中盤の狙撃戦も良い。特に工場の戦闘。パイプをくぐって回り込み、ガラスの破片を利用して敵の位置を探る。少しでも身体を出せば、死が訪れる。
「はるか遠くの敵をも射抜く」というよりは、「待ち構え、先回りし、一瞬の隙も逃さない」という狙撃戦だ。そのため、「一撃の為にそこまでするか」と唸ることは多いが、対して、「あんな遠くの小さな的によく当てられるな」と驚くことは冒頭以外はあまり無い。室内戦も多いためだ。
待ちに徹し、一瞬の隙も逃さない老練の狼・ケーニッヒ少佐。
敵の動きを探り、チャンスを作り出す若き狩人・ザイツェフ。
この対決の構図だけでも、つい燃えてしまうことは言うまでもなし。
…いいじゃねぇか。何が惜しいってのか。
…もしかして、やっぱり。
うん、そうなんだ。要は、「三角関係とかそういうのはいいから、戦闘に集中してくれよ」、ってことなんだ。
(以下、かなりネタバレ)
こう反論されるかもしれない。
ザイツェフとケーニッヒの決着において、友情と愛情は重要な役割を果たしている、と。
たしかにその通りだ。若きザイツェフの技量は、老練のケーニッヒには及ばない。最終的に勝敗を分けたのは、狙撃の技術ではなく、彼らが負っているものの差であった。
片や、恋人を失った怒りと悲しみ。そして、失われつつあるゆえに輝きを増す、友人との絆。
片や、息子を失った悲しみ、ベテラン職業軍人としての矜持、そして除隊を迫られつつある焦り。
ケーニッヒは最後の戦闘ではそれまで保っていた冷静さを欠く。勝利を確かめるために、無謀にも立ちあがりザイツェフのポジションを探ろうとし、その結果、敗れる。
その通り。技ではなく、情が勝敗を分けた。
…だが、そういう決着を採るべき必要があったのか?
普通に、戦闘の技術に重点を置いてくれて良かったのではないのか?
技術があるだけでは勝てない、感情がなければ勝てない。たしかにそうかもしれない。しかし、この映画の場合、画面には三角関係という要素を、台詞には体制批判という要素を、それぞれ混ぜ込もうとし過ぎていて、結果としては戦争そのものの描き方が不徹底になってしまっている。
例えば、自分が恋に破れたことがわかるやいなやザイツェフ批判を新聞に載せる、終盤のダニロフ。あまりに唐突で度が過ぎており、見ていてつい笑ってしまったくらいだ。
ショタが吊られてしまったことも気づかずイチャイチャしている主人公とヒロインの姿にも、不快感を覚えた(←これは非モテゆえの理不尽な考え方かもだ)。
ユダヤ人問題も交え、ナチスのみならずソ連の体制も批判している。だが、その批判内容は、「平等の名の下に特権階級支配」を平板に語るのみで、わざわざ台詞にするまでも無いのではとさえ思う。
ソビエトの体制のマズさについては、冒頭の戦闘の酷さだけで十分伝わる。仮にそれが無かったとしても、極端な話を言えば、フルシチョフの存在だけでも十分に体制の矛盾が説明できているのではなかろうか。着任早々スターリンの威光を振りかざし強権的な指揮を執り、戦争におけるプロパガンダの威力を最大限に活用し、その為には人民の命も金も惜しまず、しかし後にはスターリン体制を批判し冷戦の雪解けにも貢献したという史実。
三角関係と、体制批判の上滑り感。
この上滑り感を合理的に説明できる、一種のトンデモ説をぶち上げることも不可能ではない。
「これはソ連のプロパガンダ映画のパロディですッ!」(C・風のシスティーナ)
…という説を。
根拠はいくつもある。
・ザイツェフの来歴をはじめとして、史実とはかなり異なる
・ザイツェフは「祭り上げられた田舎者の英雄」であることが強調されている
・「愛と死」というわかりやすい構図
・そもそもケーニッヒ少佐は、ソ連がプロパガンダ用に作り上げた架空の人物らしい
・エンディングが、ソビエトのプロパガンダ映画風である。
…。
あとは任せたキバヤシ。どうも、この説を膨らますのは不毛な気がするんだ…。
というわけで、「戦闘以外の要素を無節操に詰め込み過ぎで、どうも惜しいなぁ」と感じた映画だった。
だが序盤や中盤の戦闘がいいセンスだったのは間違いない。主演のジュード・ロウも、悩める天才狙撃手の格好良さと、学の無い田舎者のイモ臭さの両方を完璧に表現していて素晴らしい。
憎み切れない…むしろ好きなくらい…どうすればいいのだろう…この感情…。
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